シアル酸の科学

古代の霊薬、シアル酸

第1章 燕窩とは
1 兵馬俑
2 楊貴妃
3 華清宮
4 燕窩とは
5 燕窩の偽物
文献・注

第1章 燕窩(えんか)とは

1 兵馬俑(へいばよう)1)

秦の始皇帝(秦王政;紀元前259〜同210年)は13才で即位した春秋戦国時代の勇で、紀元前221年、趙、魏、楚、燕、斉をつぎつぎと攻め滅ぼして中国を制覇した。このとき39才の若さである。中国史上、始めて皇帝を名乗り、謚(おくりな)を廃止して自ら「始皇帝」と称した。中央集権を計ると共に、度量衡、貨幣、文字などを整備統合したが、黄河の上流である渭水(いすい)の周辺に大宮殿(阿房宮など)を設営するとともに驪山(りざん)に始皇陵を造営した。始皇陵の造営は紀元前247年秦王になると同時に開始され、広大な地下宮殿が造られたが、現在では兵馬俑博物館となり人々を感動の紀元前の世界へ導いてくれる。

図-1 秦時代地図
図-1 秦時代地図

兵馬俑は1974年の春、驪山の北麓で農民が井戸を掘っていて偶然発見された。その後、考古学者たちの探査、発掘、考証、研究の結果、秦の始皇帝の陵墓東側周辺の巨大な兵馬俑殉葬坑であることが明らかになった。現在もまだ発掘研究が継続されているが、1号坑、2号坑、3号坑から陶製兵馬俑8000、戦車300余りが発見されている。20世紀最大の発見と言われ、1987年、ユネスコは人類共有の貴重財産であるとして世界的文化遺産に指定した。最近、発見された長剣はクロムメッキされていて、2000年をこえて昔の輝きを今に伝えているという。この頃、すでに高度の文明をもっていた根拠であろう。兵馬俑だけでなく、万里の長城も始皇帝が精力的に建設したもので、宇宙から見える地球上の建築物として有名であるが、黄河の上流、渭水の辺りは古代中国の政権の場として重要であった。すばらしい自然条件で農業に適し、他民族の侵入を防ぎ、紀元前から十一の王朝が千百年の長きにわたってその居を定め、唐もまたこの周辺に宮殿を建てた。

2 楊貴妃2)

中国では古くから不老長寿の聖薬として燕の巣が用いられた。かの有名な楊貴妃も好んでたべたと言われる。楊貴妃は始皇帝の死後約950年、西暦719年の生まれで、名を玉環といい、735年、玄宗の子寿王瑁(こじゅおうぼう)(母は武恵妃(ぶけいひ))の妃となったが、玄宗の武恵妃が死ぬと寿王から離れて玄宗の後宮に入り、745年には、唐の第6代の皇帝玄宗(685〜762年)の貴妃となって寵愛を独占した。楊貴妃は豊艶な絶世の美女と伝えられているが、聰明で歌舞に長じ、西安(長安)の東にある驪山(りざん)の華清宮で玄宗皇帝とのデートを楽しんだ。この地は今も中国の数少ない温泉地の一つとして知られるが、秦の始皇帝もこの温泉に入ったといわれる。1に記した兵馬俑や始皇帝の墓の近くに位置する。

図-2 西安周辺略図
図-2 西安周辺略図(クリックで拡大)

楊貴妃の姉達も宮中に入り、その上、一族の楊国忠は銭勘定(ぜにかんじょう)が巧いとのことで、玄宗に取り入って節度使となり、ついには宰相として権力を独占した。そのころ、安禄山は軍事、民政の大きい実権を握って楊国忠と対立し、755年にはついに北京で15万の軍を率いての楊国忠討伐の企てが起きた。玄宗は大敗して四川省(蜀)に逃げたが、その途中(756年)、陜西省の馬嵬坡(ばかいは)で部下の反乱により楊国忠が殺害されると、楊貴妃も捕えられて殺されることになる。38才を迎えていた楊貴妃は最後に、“茘枝(れいし)が食べたい”と言って少しでも生きたいと願った。茘枝は、はじめ嶺南地方だけの産であったが、唐の頃は蜀でも産するようになっていた。それでも遠路、都の長安に運ぶのは大変なことであった。死にのぞんで一日でも長く生きたいと願い、茘枝の運送の間は処刑をまぬがれると思ったのであろうが許されず、ここにいたって玄宗もついに楊貴妃を見捨てた。玄宗の側近である宦官・高力士(こうりきし)が近くの仏堂に楊貴妃を引き入れて縊殺したことになっている。楊貴妃の墓(衣冠塚といわれる)は西安の西の馬嵬坡(興平市)にある。はじめは簡単な土饅頭であったが、墓の土は春になると白粉になって香りを漂わせたから、これを若い女性は競って顔に塗り美人にあやかったため瞬く間に盛り土が無くなってしまった。そこで、現在のように煉瓦で覆われることになったという。文献2にその写真が掲載されている。2)

外伝によると、「楊貴妃が息絶えた直後に好物の茘枝がとどいて、玄宗が嘆き悲しんだことになっている。また、絞殺の際の力がにぶったため、蘇生して日本へ来たとの説がある。山口県油谷町の二尊院に、楊貴妃の墓が現存する。言い伝えから、「楊貴妃はこの浜に流れ着いたあと、死んだので村人が埋葬したところ、玄宗が夢にこのことを知って、陳安将軍を日本へ使わして、釈迦と阿弥陀の二尊像と十三重の宝塔を贈って霊をなぐさめた」とのことである。また、熱田神宮の明神の化身であるとの説もある。また、京都東山の泉涌寺には「楊貴妃観音」があり、その堂前には「楊貴妃桜」がある。この楊貴妃観音像は香木の寄せ木造りで等身大の座像で、玄宗が追慕して造らせたという。

白居易の「茘枝図」の序に「茘枝は巴峡(はきょう)の間に生ず。樹の形は團團として帷蓋(いがい)の如く、葉は冬青(とうせい)の如し。花は橘の如くにして春榮え、実は丹の如くにして夏熟す。朶(だ)は蒲桃(ほとう)の如く、核は枇杷の如く、殻は紅繪(どうそう)の如く、膜は紫綃(ししょう)の如く、瓤肉(しょうにく)は潔白にして氷雪の如く、漿液は甘酸にして醴酪(れいらく)の如く、・・・」とあり、蔡襄の「茘枝譜」には蜀産のものは肉薄く、味甘酸で閩中(びんちゅう)の下等品にも及ばず、福州産が上等で、特に興化のものが最上級であると記している。茘枝は本枝から離れると「一日にして色変じ、二日にして香変じ、三日にして味変じ、四、五日にして外色、香味盡く去る」と言われているように、新鮮さが生命であった。

楊貴妃の時代には福州の上等な茘枝を長安の都へ味を落とさず運ぶ技術がなかったから、楊貴妃はそれほど上等な茘枝を食べたとも思えないが、蜀から長安まで600キロの道を馬で、たった3日で運ばせたとの話が残っている。3)

茘枝の子実は茘枝核(れいしかく)といい、漢方では「茘枝散」や「茘枝橘核湯、蜀痛散(けんつうさん)」などに処方して、収斂、鎮痛、消炎薬として胃痛、腸疝痛、腫瘍痛、または鎮咳薬として用いる。寒を去り、鬱帯を散じ、血中の気をめぐらし、疝疾を治すという。3)

3 華清宮2,4)

華清宮は秦の始皇帝も入浴したと伝えられる古くからの温泉地である。唐時代の有名な詩人、白楽天は玄宗と楊貴妃のロマンスを歌った長編叙事詩「長恨歌」に「春寒くして浴を賜う華清宮、温泉の水滑らかにして凝脂を洗う・・・」とあり、ますます有名になった。楊貴妃が入浴した風呂(海棠湯)も現存して多くの観光客を呼んでいる。現在の温泉は湯元4箇所、湧出量は125トン/時間、43℃、炭酸カルシウム、炭酸マンガン、硫酸ナトリウムなどを含み、関節炎や皮膚病に有効と言われている。

このように華清宮は古くからの話題に事欠かないところであるが、近代中国の発祥の地としても決して忘れられない所である。1936年10月、毛沢東は蒋介石の国民党軍との内戦を戦いながら、南部の根拠地(瑞金その他)から1万2千5百キロの「長征」を終えて延安に到着した。1936年12月、蒋介石は楊虎城と張学良の共産党討伐軍を督戦するため南京から西安に来て、華清宮の五間庁に泊まっていたが、12月12日の早朝5時に襲撃され、蒋介石は銃声に驚いて裸のまま窓を乗り越えて裏山へ逃げた。8時ころ、裏山の大きな石の陰に隠れていた蒋介石が張学良の衞兵に発見され、西安の招待所に幽閉された。

張学良と楊虎城は延安の毛沢東首席に電報を打って代表団の派遣を要請し、毛沢東は周恩来を派遣した。周恩来と蒋介石の交渉の結果、「第二次国共合作」が実現したものである。五間庁の窓には今も弾痕が残り、割れたガラス窓からは蒋介石が寝ていたベッドや使っていた机が見える。裏山の大石には石造りの小部屋がつくられて「兵諫亭」と名付けられている。その後、蒋介石は台湾へ逃れ、1949年の中華人民共和国の誕生へとつながるのである。

4 燕窩とは3,5,6)

燕窩は燕蔬菜、燕菜、燕根ともいって、「金糸燕(きんしえん)」というアマツバメ科アナツバメ属の燕の巣のことである。主に和名「シロハラアナツバメ」及び「ジャワアナツバメ」など、アナツバメ属の各種アナツバメの巣である。本草綱目拾遺にも収載され、中国では古くから不老長寿の聖薬として用いられた。また、高級中華料理に欠かせない食材で、前述のように、昔、かの楊貴妃も好んで食べたと言われる。「シロハラアナツバメ」は(学名 Collocalia esculenta L. )体長約9センチの小鳥で、熱帯の沿海や島の絶壁や洞窟の絶壁おく深く営巣する。7)空中を飛ぶ虫を主食とするのは、日本に普通の燕と同じである。

同属のC. vestita L. やC. inexpectata Hume. ; C. thunbergi; C. unicolor Jordon; C. linchi affinis Bearan.などの巣もどうように燕窩として薬食用とする。このアナツバメ属には20種に及ぶアナツバメがいる。その種類を鳥類図鑑8)から列挙すると、アマツバメ科(Apodidae)アナツバメ属(Collocalia)オニアナツバメ、コシジロアナツバメ、ショクヨウアナツバメ、セイシェルアナツバメ、インドショクヨウアナツバメ、ムジアナツバメ、カロリンアナツバメ、コケアナツバメ、ヤマアナツバメ、タヒチアナツバメ、マルケサスアナツバメ、クックアナツバメ、ヒマラヤアナツバメ、フィリピンアナツバメ、パプアヤマアナツバメ、パプアカワアナツバメ、ガダルカナルアナツバメ、ジャワアナツバメ、オオアナツバメ、シロハラアナツバメ、フィリピンシロハラアナツバメ、コビトアナツバメである。名称からも分かるように、東シナ海、南シナ海からインド洋に及ぶ広範囲な南洋諸島の島嶼に生息するアナツバメの仲間が対称になるが、良質の燕窩を産するものはそれほど多くはない。

学名のCollocaliaは“しっかり固められた巣をつくる鳥”の意味で、ギリシャ語のkollaoは“膠で固定する”の意で、kolla(にかわ)にギリシャ語のkalia(鳥の巣)を付けて作られたものである。

金糸燕は毎年4月に産卵するのであるが、産卵にあたっては古い巣は使用せず必ず新しい巣を作る。面白いことに、営巣にあたってもっぱら雄鳥の唾液腺が大変肥大発達して、粘質の分泌物を出し、これを使って雌鳥と雛鳥が丁度入れる大きさの浅い帽子型の巣を作る。(写真参考)

図-3 天然最高級燕窩
図-3 天然最高級燕窩(左:白燕 右:血燕:表紙参照)

このようにアナツバメの世界では雄鳥が、出来るだけ立派な巣を作って求愛行動に入る。巣はもっぱら粘質の唾液腺分泌物だけで作るが、固まった粘液で作られた巣は複雑な織物を想わせ、ときに絨毛を混ぜることがある。9)また、血液が混じって赤みを帯びたものもあり、これを血燕(写真:右)と言って珍重される。この混じり方が悪いと燕窩根といって下級品になってしまう。一般に燕窩は白色であって、混じりのない特上品を白燕(官燕)という。(写真参照)新しい巣が出来るころ、これを採取すると第2回目の営巣をするが、唾液腺や絨毛だけでなく、多くの羽毛を混ずるようになる。これを毛燕といって下級品である。燕窩は形を整えるため、ときに整形をするので、削り屑を燕角といい、最下級品であるが同様に薬用に供する。10)燕窩の採取があまり繰り返されると燕は集団で移住して2度と営巣しなくなる。住民はこれを嫌ってそれぞれ決まった島嶼を確保して神を祭り、部外者が立ち入ることを極端に防ぎ、ライフル銃を装備して燕窩が毎年沢山採取出来るように保護している。一般には古い巣も採集して利用する。

燕窩は一般に半月形の長さ6.5〜10cm 、幅3〜5cmの子供の手のひらを想わせる。岩壁に付着していた側は平らで、反対側はやや丸みを帯びる。写真はいずれも付着状態を示している。原料が唾液と絨毛であるから乾燥した製品はあたかも「乾燥フノリ」に似てやや堅いが大変もろく、雑に扱えば直ちに壊れてしまう。繊細な芸術品を思わせる。水につけると膨潤して軟化し、蒟蒻様になる。

5 燕窩の偽物

古くから中国では燕窩は大変高価であるから、寒天を一名「菜燕、燕菜、洋菜燕」などと呼んで、燕窩の代用品として用いた。寒天は中華料理で珍重される燕窩と比べて大変安いからである。いずれにしても、燕窩は水に溶けないのに、寒天は水で煮れば溶けてしまうから、燕窩とは容易に区別することが出来る。入手の際には十分に注意する必要がある。水に溶ける燕窩は寒天を主とした偽和品である。11)

文献・注

  • 1) 呉暁叢、“2200年前の帝国勇兵—秦の始皇帝陵兵馬俑”、香港廣彙貿易株式会社、1992.
  • 2) 姚雪峰、他、“西安の名所旧跡—長安懐古—”、香港廣彙貿易株式会社、1992;村山吉廣、“楊貴妃—大唐帝国の栄華と暗転—”中公新書、中央公論社、1997.
  • 3) 難波恒雄、原色和漢薬図鑑、上下、保育社、1980.茘枝の記載は上卷、p257.
  • 4) 伊盛平、主編、“陜西歴史博物館”、香港文化教育出版社、1992.
  • 5) “中薬大辞典”、上海科学技術出版社、小学館(昭和60年).
  • 6) 南京薬学院編、“薬材学”、華文化服務社 .
  • 7) 團伊玖磨、“燕窩行—燕の巣をたずねてー”、週刊朝日、カラー別冊、96−110(1970).
  • 8) a)山科芳麿、世界鳥類和名辞典、大学書林、昭和61年;b)内田清一郎・島崎三郎、鳥類学名辞典、東京大学出版会、1987年;c)白井祥平、世界鳥類名検索辞典和名篇、原書房、1992年;d)日本語版監修、山岸哲、世界鳥類事典 (The Illustrated Encyclopedia of Birds)、株式会社同朋舎出版、1996年.
  • 9) Y.C.Kong, W.M. Keung, T.T.Yip, K.M. Ko, S.W.Tsao, and M. H. Ng, Comp.Biochem. Physiol., 87B, 221-226 (1987). 古くは、金糸燕が海藻と泥で営巣するとか、海藻と唾液で固め合わせて作るなどの説があった。しかし、燕窩の分析や複雑な糖タンパク質の構造決定法が確立してから、(第2章参照)明確になった。
  • 10)浙江省衛生庁編、“浙江省中葯炮制規范”、浙江科学技術出版社、1986年;福建省衛生庁編、“福建省中葯炮制規范”、福建科学技術出版社、1988年など.
  • 11)柳川鉄之助“寒天”、工業図書株式会社、昭和17年.

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